純子曰く… マガジンハウス刊
『ダカーポ』 No.433 1999年11月17日号:日本テレビの杉本純子:
超一流のコーディネーター,パリにライオンという名の男がいる
その目撃者は陽が沈んでから約束の場所に現れた。彼はアラブ系の男性で、現場近くのレストランに勤めている。仕事を終えて帰ろうとした時に、トンネル内での衝突音を聞き、現場に駆けつけたという。だが、取材を受けることを異常なほど拒んだ。日頃から人種差別を受けており、父親から自分たちが証言してもろくなことにはならないときつく口止めをされていたからだ。フランス語の話せない私たちには交渉の手だてが全くない。ライオンがどこまで粘ってくれるかが勝負だった。それがどんなに貴重な取材かが分かっているライオンは決して諦めず、時間をかけて彼の心を徐々に解きほぐし、ついに話す決心をさせた。
「僕は3人目に現場に駆けつけた。後部座席の女性はまだ意識があってウーンと唸っていたが、まさかダイアナだとは思わなかった。パパラッチらしき男性が彼女を助けようとすると、別のパパラッチが止めた。隣に乗っていた男性はすぐに死んでいるとわかった。ズボンが引き裂かれるようになっていてひどい状態だった・・・・」
それまで事故後に駆けつけた医師のインタビューは地元放送局から世界に配信されていたが、それより先に現場に駆けつけた目撃者の談話はこれが初めてだった。
もしもこれがライオンでなく、不慣れなコーディネーターだったらどうなっていたか。もしもカップルがインタビューの最後にぽつりともらした「友人が事故に遭遇した」という一言の重要性に気づかず通訳してくれていなかったら。おそらく善かれと思ってなのだろうが、相手の話をこちらが納得しやすいようにまとめて通訳する人は決して少なくない。
ライオンはこの点を実によく踏まえていた。さらに通訳が難しい複雑な内容は自らの判断で話を進め、行動した。おかげで私たちのパリ取材は順調に進んだ。彼ほど優秀なコーディネーターは私はかつてあったことがない。いや、とびきりのコーディネーターであるだけでなく、粘り強いネゴシエーターであり、そして素晴らしいジャーナリストだった。
今回の旅行の合間に、私はライオンに電話を入れてみた。
「もし、もしライオンです」
懐かしい声が聞こえてきた。フランスにいても、すぐに日本語で出るところが面白い。
「久しぶり、元気ですか?えっパリに来てるの?僕はいまケンゾーさんのオフィスにいるんです」
そういう彼に、私はどこのケンゾーさんかと尋ねた。すると、色の魔術師ことファッションデザイナーの高田賢三氏の撮影の仕事をコーディネートしているという。そのために多忙で2年ぶりの再会は叶わなかったが、私たち家族のためにお勧めのレストランを親切に教えてくれた。
日本に帰ってテレビをつけると60歳を区切りに現役を引退し、今回が最後のパリコレになった高田賢三氏が映っていた。そのニュース映像の裏側でも、パリの純日本風アメリカ人、ライオンがきっと大活躍していたに違いない。